『SEVENDAYS FOOTBALLDAY』:ピカピカの社会人1年生(桂陸人)

この春から社会人になった桂陸人。スーツ姿が初々しい
東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」

 それはサッカーの世界で行けるところまで行きたかったけれど、もうその道に未練はない。最高の仲間と、最高の時間を過ごした思い出を胸に、今度は自分で選んだ新しい世界で絶対にのし上がってやる。ひたすら上だけを目指し続けているアイツらと、胸を張ってライバルだと言い切れるだけの、今を生きていくためにも。

「これだけサッカーを上のレベルでやってきて、1回どん底に落ちて、という想いをした人間ってなかなかいないと思いますし、なかなかみんなができる経験ではないので、もう後は上がっていくだけなのかなって。サッカーで培ったものは社会人にも通ずる部分があると思いますし、そういった部分を自分の強みにしながら、自分が選んだ『社会人として、立派なビジネスマンになる』という道を正解にしたいですし、まったく新しい世界に飛び込んで、揉まれて、成功したいという想いはあります」。

 かつてはサンフレッチェ広島ユースの10番を背負い、年代別代表も経験するなど、将来を嘱望されていた生粋のサッカー小僧。桂陸人はこの春から新たな希望にあふれたピカピカの社会人1年生として、ビジネスの世界へと身を投じている。

 最初にその兆候が現れたのは、高校2年生の秋。学校のみんなと関東に行った修学旅行でのことだった。「帰りの羽田空港で、搭乗手続きをしたあとの待ち時間があるじゃないですか。その時にお腹のあたりが痛くて急に立てなくなっちゃって、『ヤバい……』って。でも、その時は何が何だかわからなかったですし、置いていかれるわけにもいかないので、飛行機に乗ったんですけど、もう本当に痛くて、飛行機の中で席を4席分空けてもらって、寝っ転がって、吐きまくっていました」。

 広島空港に到着するや否や、救急車で病院に搬送される。診断の結果は『尿管結石』。想像もしていなかった病名にもちろん不安は覚えたものの、1週間ほど入院しただけですぐに練習へ復帰し、直後にあったJユースカップの試合にも出場。その後は特に症状も出なかったため、普通の日常を取り戻していく。

 小学校4年生の時に広島高陽FCで本格的にサッカーを始めた桂は、中学進学時にサンフレッチェ広島ジュニアユースのセレクションに合格。ここから一気に才能を開花させ、2年生の3月に初めてU-15日本代表に招集を受けると、以降は年代別代表の常連として中村敬斗菅原由勢谷晃生鈴木冬一といった同級生や、1つ年下の久保建英らと切磋琢磨する日々を過ごしていく。

 ユースに進んだ後も着々と成長を遂げ、10番を背負った高校3年時にはプレミアリーグWESTを堂々と制し、ファイナルでは鹿島アントラーズユースを撃破して日本一に。トップチームの昇格は叶わなかったが、ずっと携えてきたプロサッカー選手になるという夢を実現させるため、関東の名門・順天堂大に進学。生まれ育った広島を離れ、大学サッカーのステージに飛び込んだ。

プレミアファイナルを戦う広島ユース時代の桂。10番を背負って日本一に貢献した

 スタートは順調だった。入学直後の4月に関東大学リーグデビューを果たすなど、早々にチームにもアジャスト。着実に手応えを掴みつつあった中で、そのタイミングは突然訪れる。「夏前ぐらいのある日の、夜の練習が終わった時でした。その日はトイレに行っても出し切った感がなくて、『ちょっと怖いな』と思っていたんですけど、ちょっとずつ腎臓のあたりに違和感が出てきて。1回やっているから『来そうだな』というのがわかるんですよ。それでもう痛くなる前に自分で救急車を呼んで、近くの病院に運んでもらいました」。予感的中。尿管結石の再発だった。

「汗がうまく出ないから、水分を摂らないと尿が溜まっていって、悪い物質が石になるんです。サッカーをやっているとそのバランスがうまく取れないので、お医者さんには『わざわざ水分補給するよりは、1回サッカーから離れて水分だけ摂って、薬も飲みながらうまくやっていかないと』と言われました」。秋ごろには練習に復帰したものの、年が明けるとまたもドクターストップが掛かる。

 さらに桂を、そして世の中を、予想もしなかった事態が襲う。新型コロナウイルスの世界的な蔓延だ。1年時は寮生活をしていたが、2年に進級して1人暮らしを始めていたため、いろいろと考えてしまうことも少なくなく、ひたすら通院を繰り返す毎日の中で不安が募っていく。

 その後も何回か尿管結石に苦しめられ、改めて検査してみると、今度は『急性腎不全』という診断が下る。「『激しい運動を継続的にやると数値が悪くなってくるので、やらない方がいい』ということでした」。自分がプレーできない一方で、代表で一緒に戦っていた仲間はそれぞれのステージで活躍している。「自分は立ち止まっているというか、何もできなかったので、一時期はサッカーの情報をシャットアウトしていました」。

 ようやく9月に入るとドクターからの許可が下りて、練習へと復帰。ただ、通院と授業との兼ね合いからトップチームの練習とは時間が合わず、チームのスタッフとも相談した上で、トップチームの後に行われるセカンドチームの練習に参加し、コンディションを整えながら、少しずつボールを蹴る感覚を呼び覚ましていく。

 12月。桂に実戦復帰のチャンスがやってくる。「『Iリーグの全国大会出場を懸けた試合があるから、そっちに出てみてくれ』と言われて、練習もあまりしていなかったんですけど、そこで復帰しました。公式戦は1年ぶりでしたね」。仲間と勝利を目指し、グラウンドを走り回る時間が、ただただ楽しかった。

 チームメイトたちへの感謝も語り落とせない。難しい状況にあった自分を、それぞれの形で見守ってくれていたことは、痛いほどよくわかっていた。「中学から一緒にやっていた山崎大地には状況を言っていたんですけど、みんな僕の現状を聞きにくそうでした。練習場に行ったら『珍しいな』となりますし、少しいてもすぐにいなくなりますし、心配はしてくれていたと思いますけど、実際は絡みにくかっただろうなって。でも、ゴハンに行ったりはしていたので、普通に接してくれていましたね」

「先輩も凄く優しく接してくれましたし、それこそ一緒にやっていたサンフレッチェの同期はもちろん、仙波大志くんや満田誠くんもちょくちょく連絡してくれていましたね。あとは(菅原)由勢たちも心配してくれていましたけど、やっぱりあまり聞いてこないというか、ちょっと聞きにくいんだろうなとは思いましたし、察して連絡をしてこないでくれている人もいましたね」。みんなの優しさは、ささくれ立っていた心にじわじわと沁みた。

 その後も復帰と離脱を繰り返しながら、3年時の夏前には状態が安定し始め、継続してトレーニングへ取り組めることに。すると、古巣のサンフレッチェ広島から練習参加の要請が届く。とうとう巡ってきたチャンス。必死に食らい付くと、周囲の選手からも上々の評価を伝えられ、自分の中でも確かな自信が芽生えていく。

 加えてこのころには教育実習で、青春の3年間を過ごした母校の吉田高校へ赴くことに。時間のある時にはユースの練習にも参加し、“後輩”たちとも交流を重ねる。「やっぱりサッカーで生きていきたい気持ちはずっとありましたね。病気になった初めの頃は『もうダメだ』とも思いましたけど、徐々に『身体づくりをしよう』とか『時間があるからこそいろいろなことをしよう』とか、ポジティブに捉えるしかないなと思って過ごしていましたし、目標や夢がちゃんと芯としてあったので、そこがブレることがなかったから、努力を続けていられたのかなと思います」。見えてきたプロサッカー選手への道筋。さまざまなモチベーションも自ずと高まっていったことは間違いない。

得意のドリブル勝負に挑む順天堂大4年時の桂

 4年生になった春先は体調も良く、リーグ戦でもスタメンを確保。ピッチ上でのパフォーマンスも振るっており、複数のJクラブから興味がある旨も伝えられていた。プロ入りを懸けたラストスパート。だが、そんな好調はそう長く続かなかった。6月。またもや通達されたドクターストップ。本人も不調の兆しは感じていたという。「暑くなってくると、やっぱりどんどん水分も失われていくんですよ」。桂の名前は試合のメンバーリストから消えていった。

 その年の10月。桂は順天堂大学病院に赴いた。依然としてオファーを出してくれそうなJクラブはいくつかあったが、いろいろな人と話し合った結果、そういったクラブが行う形ではなく、大学と日本サッカー協会の協力を仰ぐ格好で、メディカルチェックを受けることになったからだ。

 詳しいことは聞いていない。聞きたくなかったから。ただ、事実だけは受け取った。メディカルチェックを経たドクターの結論は「日本のプロサッカークラブでプレーすることは難しい」というもの。小さいころから抱いてきた「プロサッカー選手になる」という夢はこの時、うたかたのように弾けて、消えた。

「ドクターの言い方的には『たぶんやめた方がいいと思う』という感じでした。『いろいろな人と話した結果、プロになるのはやめた方がいいと思う』と言ってくれて、そうハッキリ伝えてもらったことは良かったですね。プロになればもっと厳しい世界で生きていくことになるのに、離脱と復帰を繰り返して、パフォーマンスも上がらず、結局何者にもなれずに終わるぐらいだったら、やっぱりやめた方がいいのかなとは、自分でも思いました」。

 海外に行く可能性も模索した。代理人経由で自分のプレー動画を売り込んでもらい、実際に練習参加のオファーももらったが、そこは思っていたようなレベルのチームではなかった。「凄くありがたい話なんですけど、やっぱり現実的なこととして、『そこから上に行けるかな』ということも凄く考えましたし、上に行けたとしてもたぶん日本よりメディカルチェックも厳しいはずで、もちろんチャレンジしている選手はたくさんいますけど、Jで実績がない僕にはそれがあまりイメージできなくて、結局全部お断りさせてもらいました」。

 どんな時もずっと応援し続けてくれた、両親には直接伝えた。2人とも泣いていた。自分も泣いていた。「もうそこできっぱり決めたので、未練はないです」。覚悟は決まった。桂はプロサッカー選手という夢を諦め、まったく違う形で社会人としての第一歩を踏み出すことを決意したのだ。

 実はメディカルチェックの結果が出たころから、海外でのクラブ探しと並行して、就職活動は始めていたが、中途半端な気持ちで成果が出るほど、その世界も簡単なものではない。「始めたばかりの10月と11月にも何社か受けたんですけど、何も準備していなくて、『その場のノリで行けるやろ』と思っていたので、がっつり落とされましたね(笑)。『ああ、就活って大変だな』って」。

「それで『もうこれは1年遅らせよう』と。その時はこのまま就活をしても、普通のサラリーマンになってしまうというか、自分の存在が消えちゃいそうになるのを凄く感じていたので、だったらやりたいことをもう1回勉強して体勢を整えたいなと思って、“2023年卒”での就活はあきらめて、“2024年卒”で行こうと思ったのが11月ですね」。焦って決めてしまうのではなく、ちゃんと時間を掛けて、自分のやりたいことを見つける。そう考えると、少しだけ気分が楽になった。

 しっかり対策を講じ、自分自身を見つめ直して、真摯に就職活動と向き合ってからは、もう“連戦連勝”だったという。「ここまでいろいろな経験をしているのは、僕ぐらいしかいないと思うので、面接の機会を戴けて、それを伝えられることができれば、かなり手応えはありました。『スポーツをちゃんとやってきた経験って強いんだな』とは感じましたね」。決して楽しいことばかりではなかった。むしろ苦しいことの方が多かったかもしれない。それでも、サッカーの世界を自らの足で歩いてきた今までの道のりが、自分を助けてくれたのだ。

 この4月からは、希望していた大手企業で働き始めている。「自分をイチから叩き直したいと思っています。働き方も比較的自由の利く会社で、将来は漠然とですけど『自分で会社をやりたいな』という想いもあるので、ここならより可能性が広がるなと思って、頑張って働いています」。スーツに袖を通し、革靴を履き、慣れない仕事に悪戦苦闘しながら、ちょっとずつ働くことの意味を実感している。

 今でも代表活動で一緒に戦った仲間とは、親交が続いている。「由勢とか敬斗、建英は日本に帰ってくるたびに会っていますね。この前も自分の進路をみんなに話したんですけど、凄く応援してくれました。病気のことも知っているので、『もうそれはしょうがない』と声も掛けてくれましたし、メッチャいいヤツらですよ。凄く良い関係だなと思います」。

U-16日本代表時代の一コマ。前列左から3人目が桂、5人目が久保。後列左から1人目が菅原、2人目が中村

「今はもう悔しいという想いはないですね。素直に応援しています。会うたびにメチャメチャ刺激をもらいますし、やっぱり『負けたくない』という想いがありますね。まだ何が正解かはわからないですけど、自分の決断を正解にしたいと思いますし、違う角度で肩を並べるじゃないですけど、アイツらにも『こういうことをしているんだ』と胸を張って言えるような人になりたいと思います」。そう言った桂は晴れやかな表情で、ちょっとだけネクタイを締め直した。

 それはサッカーの世界で行けるところまで行きたかったけれど、もうその道に未練はない。最高の仲間と、最高の時間を過ごした思い出を胸に、今度は自分で選んだ新しい世界で絶対にのし上がってやる。ひたすら上だけを目指し続けているアイツらと、胸を張ってライバルだと言い切れるだけの、今を生きていくためにも。

 きっとこれからの人生にも、数多くの困難が待ち受けていることだろう。でも、恐れることはない。心配することもない。サッカーを通じて絆を結んだかけがえのない仲間たちが、これから仕事を通じて出会っていくまだ見ぬ仲間たちが、いつだって支えになってくれる。希望にあふれたピカピカの社会人1年生。桂陸人の新たな挑戦に、最大限の拍手とエールを。

■執筆者紹介:
土屋雅史
「群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に『蹴球ヒストリア: 「サッカーに魅入られた同志たち」の幸せな来歴』『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』


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Source: 大学高校サッカー

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