東京のユースサッカーの魅力、注目ポイントや国内外サッカーのトピックなどを紹介するコラム、「SEVENDAYS FOOTBALLDAY」
みんなの想いが繋いだそのユニフォームは、着るべき人の元へ戻ってきた。もう待ち切れない。この瞬間のために、6年間も必死で頑張ってきたんだから。溜めて、溜めて、溜めて、聖地の空にキャプテンが優勝カップを掲げると、最高の仲間たちに囲まれた22番の表情にも、最高の笑顔が弾ける。
「少しでもチームのためになればと思って、自分にできることをしっかりやってこれたので、それで自分が少しでもみんなの力になれていたなら、このケガも全部が悪いことばっかりじゃなかったなと思います。もう最高です!」。
高校選手権の日本一を堂々と勝ち獲った2023年の青森山田高(青森)を1つにまとめた、幸運を呼び込むラッキーチャーム。常にチームとともにあった“22番のユニフォーム”は、最後の最後にDF関口豪(3年=青森山田中出身)のところへ帰ってきたのだ。
初めてそのチームを意識したのは、地元の栃木で無邪気にボールを追い掛けていた小学校5年生の時だった。たまたまテレビで目にした選手権の決勝。緑色のユニフォームを着た高校生たちが、とにかく輝いて見えた。
「選手権で初優勝した時のチームをテレビで見ていて、『マジでカッコいいな』って。それで『このチームに行くにはどうしたらいいの?』とお父さんに聞いたら、『中学校から入れるらしいよ』と教えてもらって、そこからは勉強も頑張るようになったんです」。一念発起して受験した結果は見事合格。関口は親元を離れて青森山田中へと入学する。
今回の選手権でも活躍したDF山本虎(3年)やDF小林拓斗(3年)、GK鈴木将永(3年)、MF後藤礼智(3年)、MF芝田玲(3年)、FW米谷壮史(3年)らが主力を張っていた中で、中学時代も決してメインキャストだったわけではない。ただ、地道に努力する姿で周囲からの信頼も厚かった関口は、そのまま高校も青森山田で勝負する道を選択した。
1年時のAチームは、結果的に高校三冠を達成したドリームチームであり、松木玖生や宇野禅斗といった先輩たちははるか遠い存在。やはり今回の選手権で登録メンバー入りを果たしたMF齊藤和祈(3年)やFW山下凱也(3年)、DF柿谷敦月(3年)たちと一緒に、関口は一番下のカテゴリーから高校生活をスタートさせる。
2年に進級すると、ようやく県2部リーグを戦うチームで出場機会を得始め、夏過ぎにもプレーするカテゴリーが1つ上がる。さらに選手権が終わり、本格的に新チームが始動する頃にはAチームのメンバーにも食い込み、開幕2節目で念願のデビューを果たしたプレミアリーグと、Bチームが主戦場を置くプリンスリーグ東北を並行して戦うような立ち位置まで駆け上がった。
忘れられない試合がある。6月24日。プレミアリーグEAST第9節。アウェイで市立船橋高と対戦したチームは、1点のビハインドを負ったまま終盤へ突入。すると、ほとんどラストプレーだった後半45+7分に、関口は執念の同点ゴールを叩き込む。
「あの試合の時は、自分的に試合中も点を決めたあとも結構フワフワしていたんですけど、『負けちゃいけないな』という気持ちでしたね。もしあれで負けていたら、チームの流れも全然変わっていたと思います」(関口)。何とか勝ち点1を獲得した青森山田は、次のゲームから4連勝を達成。シーズン全体を考えても、関口のプレミア初ゴールは小さくない影響をチームにもたらした。
悪夢の瞬間は、突如として訪れる。9月のある日の練習中。関口は左ヒザに猛烈な痛みを覚え、その場に倒れ込む。「『これはいつもと違うな』という感覚があって、もう立てなかったですね」。翌日の朝に病院へ向かうと、診断の結果は左ヒザ前十字靭帯断裂。想像以上の重傷だった。親に報告の電話を掛けると、自然と涙がこぼれてくる。
「豪は病院から学校の教室に1回帰ってきたんですけど、その顔を見れば泣いていたことはわかりましたし、本当に自分も胸が痛くて、なんて声を掛けたらいいのかわからなかったです……」。寮では中学1年と高校3年で同部屋となり、普段から一緒に行動することの多い小林拓斗が、その日のことを思い出す。
「虎が代表に行っていたので、夏の和倉ユースでも自分が小泉(佳絃)とセンターバックを組んで試合に出て、ちょっと結果も出てきたかなという時期だったので、本当にいろいろ頑張ってきたものがなくなってしまうというか、『もうこれ以上できないんだ……』みたいな感情はありました」。青森山田で過ごしてきた6年間の集大成となる、最後の選手権を控えたタイミングでの大ケガ。関口の心中は察して余りある。
選択肢は2つあった。復帰までの時間は掛かるが、完治自体は早まる手術を受けるか。それとも選手権出場への一縷の望みを賭けて、保存療法を選ぶか。「正木さん(正木昌宣監督)からは『どちらにしろ、後悔のない選択をしなさい。もし手術することになってサッカーができなくなっても、選手権には帯同してもらって、一緒に戦いたいと思っているから』と言ってもらえたんです」。
最終的な決め手は、子どもの頃から抱いていた夢だった。「最後は『プロサッカー選手になりたい』という想いが一番に来たんです。大学も中京大学という素晴らしいチームに行けるので、それならここは選手権を我慢して、『大学を経てから、プロになろう』という想いになりました」。熟考の末、17歳は手術することを決意する。
関口の名前がメンバーリストから消えた一戦を境に、青森山田の公式戦の集合写真は、必ず“それ”と一緒に映ることになった。「ケガをしてプレーができない豪の想いを代わりに背負っているというのは、自分が誰よりも思っているつもりなので、試合前にあのユニフォームを持つことで、より『豪のために』というところは感じます」と話すのはMF福島健太(3年)。外出するのも、夕飯を食べるのも、いつも一緒だという親友は、以降も欠かさず関口の“22番のユニフォーム”を試合前に掲げ続けることになる。
病室にもその想いは届いていた。11月。手術のために入院していた関口が、ベッドの上でスマホを手に選手権予選決勝の映像を見始めると、画面にはいつも通り福島が持つ“22番のユニフォーム”が映し出される。「健太が掲げてくれたのは嬉しかったですし、前日に拓斗と電話した時に『明日は勝つよ』と言ってくれたので、それも嬉しかったです」。試合は9-0で快勝。チームメイトたちは最後の日本一に挑む権利を、力強く手に入れた。
12月10日。プレミアEASTを制した青森山田は、プレミアWEST王者のサンフレッチェ広島ユースと、リーグチャンピオンを懸けて埼玉スタジアム2002で対峙。サポートメンバーとしてチームに帯同していた関口も、メインスタンドの高い場所からピッチに立つ仲間の姿を見つめる。
後半に先制を許したゲームは、攻め込みながらも1点が遠い。だが、試合終了間際に何とか追い付くと、関口はあることに気付き、すぐさまスタンドからピッチへ駆け下りてくる。「『マジで負けたくない!』と思っていた矢先に1点決まって喜んだんですけど、PK戦になったら必要になるので、下にみんなの分のベンチコートを持って行っていたんです」。
すると、もうほとんど試合も終わり掛けていた後半45+4分。FW津島巧(3年)が劇的な決勝ゴールをマークする。「下に行ったら、目の前ですぐにあのゴールが決まったので、自分は走れなかったですけど、アレはヤバかったですね」。タイムアップのホイッスルが鳴ると、自然と涙がこぼれてくる。
「ずっと春から三冠を目標に掲げていた中で、夏のインターハイでは日本一になれなくて本当に悔しかったので、『二冠を獲るぞ』と決めた夏から、とにかく努力してきたみんなを見てきていた分、本当に嬉しかったです」。表彰台で優勝カップを掲げて喜ぶ、この試合の登録メンバーを下から見上げていた関口の視界に、福島が“22番のユニフォーム”を持って、こっちにアピールする姿が飛び込んできた。
「(サポートメンバーの)豪は表彰台まで上がれなかったので、『豪のためにも自分がやってやったぞ』という想いで、ユニフォームを持っていきました」(福島)「健太のおかげで、表彰台まで一緒に行っている感覚もちょっとはあったかなと思います」(関口)。3年間の高校生活の中で、涙を流したのはこの時が“2回目”だったそうだ。
忙しそうに、立ち働いていた。翌日に選手権の決勝戦を控えた青森山田の前日練習。今大会の登録メンバーに入っていた関口は、ボールを蹴るチームメイトたちの傍らで、自らのやるべきことをてきぱきとこなしていく。
「みんなを見ていると、もちろん自分もプレーしたい気持ちはありますけど、それはできないからこそ、疲労度も全然低い自分は、本当に今やれることを探して、探して、みんなより動こうという感じです」。
選手たちが置いていくウエアを、丁寧に、綺麗にたたんでいく。「ウエアをたたむのもうまくなりましたよ(笑)」と笑顔で語る関口の言葉を受けて、小林も「もう最近はウエアを脱いだら、絶対に『豪、おねがい!』と渡していますね(笑)」とこれまた笑顔。この一連にグループの良好な雰囲気も滲む。
その献身的なサポートに、みんなも感謝を覚えているのは言うまでもないだろう。
「豪も自分たちに『何でもやるよ』と言ってくれていますし、豪の存在には本当に助かっています。本人は絶対に試合に出たかった気持ちが強いと思いますけど、それを押し殺してでも、自分たちがやりやすい環境づくりや準備を率先してやってくれていることには本当に感謝していますね」(小林)。
「豪は静岡での事前合宿からずっとチームのために動いてくれて、ボトルの用意や洗濯もやってくれて、僕たち試合に出ている人からしてもとてもありがたいですし、勝利で恩返ししたいということはずっと考えています」(福島)。
キャプテンの山本虎も、中学時代からともに戦ってきた関口への想いを、こう語る。「明日で豪と一緒のチームでできるのもラストなので、豪がケガしてからファイナルで優勝して、明日の試合に勝てば選手権も優勝ですけど、ずっと豪のユニフォームを着ているので、自分が点を決めてそれを見せたいです。豪がケガした時から『自分が着よう』と思っていて、自分はもう“22番のユニフォーム”を1枚持っているので(笑)、それは毎試合着る用にしていますね」。
自分の立ち位置は、関口自身が一番よくわかっている。「自分はどう頑張っても試合に出られるわけではないのに、正木さんがメンバーに入れてくれたので、その意味を自分の中でしっかり理解してやっているつもりではいます。試合に出られない自分がメンバーに入っているのに、応援席にいる人たちは文句も言わずに自分を送り出してくれたので、そこは本当に感謝していますし、自分にできることをやるしかないと思っています」。そこがピッチの上でも、ピッチの外でも、みんなのためにできることは必ずある。それはこの仲間と過ごしてきた3年間を、6年間を通じて、何よりも学んできたことだ。
決勝を目前に控え、関口には1つだけ気がかりなことがあった。「明日優勝できたとしたら、表彰台には行けるんですかね?プレミアファイナルの時はゲームのメンバーだけだったので、どうなんですかね?」。
その陰で“親友”はもうそんな事態も想定済みだ。「豪は表彰台に来れるんですかね?でも、もし来れなかったら“22番”は僕が着ます」(福島)。泣いても、笑っても、このチームで戦える試合はあと1つ。みんなの想いが込められた“22番のユニフォーム”とともに、青森山田はこのチームで挑む最後の1試合へと向かう。
日本一を告げる試合終了のホイッスルが聞こえてきた瞬間。歓喜に沸くチームメイトたちの姿をピッチサイドで見つめていた関口の両目から、自然と涙がこぼれてくる。3年間の高校生活で“3回目”の涙を経て臨んだ、決勝戦後の表彰式。大会の登録メンバーは全員が自分のユニフォームを着て、国立のピッチに整列する。もちろんその中には、22番の姿も含まれている。
「豪が秋にケガをして、そこから試合の時は絶対にユニフォームを着てきたので、豪のためにも優勝することができて本当に嬉しいです。もう豪がたぶん一番嬉しいと思うので、豪に日本一を見せられて良かったです!」(山本)。
「ケガをしてしまった豪も含めて、チーム全員が目指した日本一になれたことも、最後に笑って終われたことも素直に嬉しいですし、 豪のために全員で戦ってきたことが、豪のためにも、自分たちの結果にも繋がって良かったです!」(小林)。
「本当に良かったです。プレミアのファイナルでは自分が表彰式に豪のユニフォームを持って行ったんですけど、今日は豪も含めてみんなで写真に映れて、このチームで一緒にやってきて良かったなと思います。最高です!」(福島)。
みんなの想いが繋いだそのユニフォームは、着るべき人の元へ戻ってきた。もう待ち切れない。この瞬間のために、6年間も必死で頑張ってきたんだから。溜めて、溜めて、溜めて、聖地の空にキャプテンが優勝カップを掲げると、最高の仲間たちに囲まれた22番の表情にも、最高の笑顔が弾ける。
「少しでもチームのためになればと思って、自分にできることをしっかりやってこれたので、それで自分が少しでもみんなの力になれていたなら、このケガも全部が悪いことばっかりじゃなかったなと思います。もう最高です!」。
高校選手権の日本一を堂々と勝ち獲った2023年の青森山田を1つにまとめた、幸運を呼び込むラッキーチャーム。常にチームとともにあった“22番のユニフォーム”は、最後の最後に誰よりもそれに袖を通すことを望んでいた関口のところへ、ちゃんと帰ってきたのだ。
■執筆者紹介:
土屋雅史
「群馬県立高崎高3年時にはインターハイで全国ベスト8に入り、大会優秀選手に選出。著書に『蹴球ヒストリア: 「サッカーに魅入られた同志たち」の幸せな来歴』『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』
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Source: 大学高校サッカー
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